こんにちは。AuventVoyageの木村ミケラです!
今日は、今ハマっているアンという名の少女の話を😊😊
アンという名の少女4話。
女の子の無邪気さのなかには、「小悪魔」と呼ぶべきか「悪魔」と呼ぶべきか、
そんなものが隠れている。
それは私が同性だから感じるものであると思うから、もしかしたらそれは男の子のなかにも変わらないものがあるかもしれない。
小学校二年生の後半を過ぎてくると、女の子は突如としてグループを作り出し、そしてそのグループには必ずリーダー格が現れる。
リーダー格の素質というのは、往々にして、性格の「優しさ」から来るものではない。
美しいもの、頭が良いもの、話が面白いもの、そしてときに、残虐性を持っているものであることがある。
何故こどもたちは一時の悪に対して憧れの感情を抱いてしまい、それは悪だとわかっていながら抗うことが出来ないのか。グループの端を担うとなったときに、外れないように、嫌われないように、そのなかに残ろうとする。それはコミュニティが小さければ小さいほどによくおこる。
忘れられない映画がある。
ウェデキントの書いた「ミネハハ」という脚本をもとに描かれた、同名の映画もあるのだが、私はこちらの方が好きな
「エコール」。
突如として森の中に集められる少女たち。閉鎖された空間の中で繰り広げられるのは、もし世の中に女しかいなかったらという、ある意味無邪気と、無垢の中に隠れている悪魔の正体を垣間見る物語。
それは女の子の発達過程の中で通りすぎる、愛と憎しみという感情を覚える過程の振り幅の広さにも近い。
愛情という感情の種類を分類するとき、それは確実に男の人達より、女性の方が複雑化されていると感じる。
その愛情の振り幅の形成段階において、心と言うのは、一度ただただ残虐なものに落ちていくことがあるのかもしれない。
残虐性を持っているリーダー格の女の子というのは不思議なもので、満たされていない子が多い。というよりはいつも何かに怒っている。それは個人の特性によるものなので、環境がどうとかいう問題じゃなくて、個人の性質のように思う。
いつも自慢し、人に優劣を付け、いつも自分が一番持っていて、上から分け与える立場にいて、自分が一番に選び、人から少しでも非難されるとその人を排除したり、暴力に出たり、ひどい言葉を浴びせかける。
でもいつも怒っていて、満たされていることが少ない。
それは他者から見たら恵まれた環境にいるようにも感じられるときもあるのだが、問題はその子の心の中にあって、どうしたらその満たされない部分を満たすことが出来るのか、自分でさえもわかっていないことが多い。
そんなときに、いじめは起きる。
それは突然に、グループ内、もしくはクラス内で。
コミュニティが小さければ小さいほどに、残虐性は増してしまう。
そしてコミュニティが小さければ小さいほどに、いじめられている子は追い詰められていく。
アンという名の少女4話。
学校での耐えられない扱いにアンは教室を飛び出し、マリラの胸に抱きつく。
マリラが自分自身の中でもマシューの言葉で気付くことがあり、抱きついてきたアンを優しく母親として受け止めてくれたこと、
本当に、心がスッとして、ホッとした。
これは昔の物語じゃない。今にだって十分に通じている。
こどもたちはどうしようもない社会の中で、自分自身と他人のコントロール出来ないイライラの中で戦っている。
逃げ出したいと思ったときに、逃げられる場所があって、自分を理解し、優しく包み込んでくれる場所がある。
こどもたちの世界を拡げてやる手助けを、私たち大人は担っている。
どうしても大人になると、常識や、固定概念に囚われがちになってしまうけど、大切なことは人の心であることを、忘れないでいたいと思える作品だ。
▲Auvent Voyage▲
木村ミケラ
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